熱中させられたがり(ひゃくえむ。)

何かに熱中したい。
少年マンガの主人公みたいに、これが自分の全てだと言えるような存在を見つけたい。強い達成感がほしい。
小さい頃からそんな願望があった。

一方で、自分の中だけでさえ、絶対的な価値を持ち続けるものなんか無いという諦めもあった。

好きなバンドの新曲も、2回目に聴くときには、いつか飽きて今ほど興奮できなくなることを想像してしまう。
気になる異性が出来たときも、勝手に期待して落ち込むのが怖くてまず嫌いなところを探してしまう。
健康的な食事や安全管理も、心のどこかで、いつか死ぬのに、と思ってしまう。

僕がこんな考え方になったきっかけは、中学、高校でやってきた陸上をやめたときだと思う。
陸上部に所属していたときは、勉強以外のほぼ全てを陸上のために使っていた。
タイムを削るために努力するのも、道で景色を見ながら走るのも好きだった。
そのときの自分にとって、走ることは唯一の自分らしさだったし、競技としてでなくても、走ることはやめないだろうと思っていた。
だけど、高校3年で引退してから、自分でも驚くほどに興味を失った。
原因は多分、走ることに価値が置かれる、陸上部の価値基準に僕が合わせていただけだったからだ。
集団の中で走ることが求められたから熱中できたが、個人としては走りにそれほど価値を見出していなかった。

それに気付いたとき、自分の情熱はこの程度だったのか、と落ち込んだ。
それ以来、わざわざ考えなくてもいいことだとは分かっていながら、どんなものでもいずれ価値を失うという予防線を張るようになった。

かくして僕は、
・熱中したいという願望
・不変の価値への諦観
という2つの感情を併せ持つようになった。

何かに情熱をぶつけるタイプのマンガを見て、ある程度は共感して胸を打たれるが、「まあフィクションだからな」と感情移入に壁を作っていた。
最終話の後、主人公が情熱から醒めるのはいつだろうか?と思いを馳せたりしていた。

そんな折、『ひゃくえむ。』を読んだ。

これも今まで読んできた多くの作品と同じように、1つのものに情熱をぶつけるタイプの物語だ。
だけど感情移入できる度合いが桁違いだった。

この物語は2人の小学生が軸になる。

主人公のトガシは、100mを速く走るために生まれてきたような才能を持っている。
まず特徴的なのは、彼は陸上に対して情熱を持っていなかったところだ。
彼は100mで1位になることが自分のアイディンティティであるのを自覚した上で、その価値を維持することをひたすら続けている。
この強迫観念に近いやる気を持っているあたりに、トガシに自分と近いものを感じた。
1ページを使った大ゴマで、
「100mだけ誰よりも速ければ全部解決する」と語っている場面は印象的だった。

そして、一番大事なのがもう1人の主人公、小宮だ。
この小宮によって、トガシは初めて陸上に情熱と恐怖を感じる。

彼が走る動機は「気が紛れるから」だった。
辛い現実を、より辛くなるまで走ることで忘れようとしていた。
この時点で、小宮の怖いまでの愚直さが植え付けられる。
走る才能は無いものの、誰にも負けない努力量と精神性があった。
そんな彼は、運動会で1位になるという経験をきっかけに、勝利への執着を持ち始める。

「僕でも一瞬なら栄光を掴める」
小宮がこのセリフを発する場面で、ずっとこんなキャラクターと出会いたかった、と思った。

この文の前半で書いたように、僕はいつか価値を失うという視点のせいで、何かに熱中したくても熱中しきれなかった。
だからこそ、小宮の栄光の儚さを前提に追い求める姿勢が衝撃だった。

絶対的な価値でなくても追い求めたいというのは、理屈で考えると無駄なことのように思えてしまう。
だけど物語を通じて読めば、感情として納得できる。
僕はずっと、小宮みたいな人間に納得して、情熱を持たされたかったのだと気付いた。

誰もがこんなマンガを望んでいた思うので、読んでない人類はすぐ買ってください。
https://www.amazon.co.jp/ひゃくえむ%E3%80%82-1-KCデラックス-魚豊/dp/4065164052

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