【昆虫食】追悼 サニー(虫注意)

高校1年生のとき、この誘いを断っていれば、今ほど辛い思いをせずに済んだのかもしれない。

上のやりとりの1ヶ月後、誘ってきた相手と僕を含む5人でセミを食べた。
やる前は、虫を食べることへの抵抗を感じると思っていた。しかし実際はむしろ殺す方が心苦しく、茹でて死んだ蝉の羽をむしる頃には、各々が「これは自分が大事に食べる蝉だ」と思っていた。
ガスコンロを使って公園で調理したが、食べるときには土の上で正座になり、自ずと手を合わせてしまった。食の大切さを忘れないよう、一年後もまた同じ活動をしようと話した。

それから毎年、多少のメンバー変更はありながらも、夏になると集まって蝉を食べた。

ちなみに他の動物を食べる案もいくつかあった。候補にバッタと芋虫があがっていた。しかし「バッタはいいけど芋虫は無理」「芋虫はいいけどバッタは無理」が半数ずつになったため、結局実現しなかった。
僕はバッタ派だった。

あれから4年。僕は大学生になった。
地元の仲間と蝉を食べることはなかったが、大学の友人に昆虫食の話をすると興味を持たれたため、僕が主催で行うことになった。

このとき初めて、バッタ、コオロギとの出会いを果たす。美味しかった。
関係ないが、この日はバッタを茹でながら無意識に口笛とか吹いていたので、当初の「命の大切さが」とかのコンセプトはほぼ無い。

またバッタは蝉に比べ簡単に捕まえられるため、今年はこの日を含めて3回食べた。
釣りに行くような感覚に近い。

バッタの他、クビキリギスなども食べた。
※食べられない虫については前もって調べていた。

活動を重ねるうち、自分が真に求めていたのは、単純に刺激だったのでは?との問いに向き合うことになる。
バッタが美味しい時点で、コオロギも同じような感じだということは大体想像がついてしまう。
調理活動として単純に楽しいのだが、最初のドキドキを味わいたいと思う気持ちから目を背けられなかった。

次に何をやるか考え、ふと思った。

「ゴキブリ食べてみたいな…」

子供の頃から、文化的に嫌悪感を植え付けられてきた悲しき存在、ゴキブリ。幼少期、飛んできたコガネムシや蝶には向かっていくのに、ゴキブリからは逃げていたのを思い出す。
しかしこの夏の昆虫食を通じて虫を手づかみすることに慣れていた僕は、台所にゴキブリが出てきても素手で窓から放り投げるくらいは造作もなく行えた。

今ならゴキブリも食べられると感じた。
しかも定期的に自分の部屋から出てきてくれるなら、こんな楽なことはない。

今のところ、考えるべき問題としては2つあった。
1.一度にたくさん出てこない(食べ応えの問題)
2.ゴキブリ自体は食べられるが、菌を持っているため、一定期間清潔な飼育環境で絶食させる必要がある

ここまでくれば、「ゴキブリを飼おう」と思うのは当然のことだろう。
僕はこの2週間、ゴキブリを飼っていた。

これが1匹目。
餓死しては本末転倒と思い、料理の際に出てきた切り端と少量の水を入れ、2日単位で交換するようになった。

3日が経った頃、台所に2匹目のゴキブリが現れる。
しかし取り逃がしてしまい、1匹目の彼は孤独なまま。

それから更に3日後、新たに現れた1匹を捕獲。仲間ができて嬉しかろうと、僕も心が軽かった。

2匹になってから急に、愛着が湧いてくる。
「区別するために必要だしな…」などと言い訳しつつ、翌日、僕は2匹に名前をつけた。
(ネーミングには、僕が松本大洋ファンなことが現れている)

これが「サニー」。
僕にとって最初に飼育したゴキブリだ。

2匹目が「カブ」。サニーより小柄で、大体コップの上方でじっとしている。

ゴキブリの生態について調べていると、彼らが寒さに弱いと書いてあった。
小柄な方が気温の変化には弱いだろうが、カブがいつも動かないのは寒さにやられているからではないかと心配になる。
ゴキブリの生命力を神話化する風潮があるが、彼らだって結局は生き物だ。
気休め程度の配慮だが、玄関から、気温の変化が少ないであろう風呂場に彼らを移動させた。

シャワーを浴びながら、サニーとカブを眺めるのは日々の楽しみだった。
やはり気温が上がるからだろうか、入浴時はいつもより活発に動く気がした。
カブはやはりコップのふちに留まるのだが、そこへサニーがやってきて触覚でつついたりしていた。

彼らのために、シュガースティックをあけたこともあった。このときはカブにも動きがあった。サニーも、砂糖のある場所に向かったあと、カブの様子を伺うように往復していた。
僕から見たサニーは、後輩想いのいい先輩だった。

サニーが来てから2週間。
家に帰り、手を洗いながらサニーとカブにただいまを告げた時に気が付いた。

2匹が動いていない。

様子を確認すべく、一度別のコップに移し替えようとした。
まずは上方にいるカブ。手に乗せると、熱で力を取り戻したのか、少しずつ動き出した。

よかったと思った。また、手の上をゆっくり歩いてくれるのが嬉しくもあった。
もちろんそれは単に弱っているだけだ。分かってはいるが、人への慣れだと解釈してみたかった。

ともかくカブを新たなコップに移した。特に逃げそうでもなかったので、ネットで囲わないままサニーのいるコップに目を戻した。

サニーはコップの底に仰向けになっていた。
カブを手に取るとき、コップを傾けたせいだろう。だがそれだけで落ちてしまうことなど、これまで一度もなかった。

どれだけ待っても、サニーは動かなかった。

松本大洋の『ナンバーファイブ』に、車で轢き殺してしまった猫をその場で食らうシーンがある。
サニーを揚げて食べようかと思った。それが償いになる気もした。

でも結局はやらなかった。
僕はサニーへの罪の意識より、自分が腹を下すリスクを重く捉えた。

特にオチがあるわけでもない。
今後カブを逃すかどうかもまだ決めかねている。
ただ、食べるために捕獲したゴキブリの死に動揺している自分への驚きをここに残しておこうと思う。

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