せめて救いようのある勘違い野郎になりたい #20210903

これは編集者の佐渡島庸平氏と、マンガ家のつのだふむさん、高堀健太(ホリプー)さんとの打ち合わせの振り返りです

僕は勘違い野郎である

最近僕はすごい成長した。

マンガを描くことを通じて、ちょっとずつ自分のことが知れてきた。

何が成長したかというと、自分はめちゃくちゃな勘違い野郎だとわかったことだ。

僕はあらゆることを自分に都合よく決めつけ、わかった気になり、向き合うことをやめるのが得意らしい、ということがわかってきた。


たとえば、編集者の佐渡島さんが会った当初からずっと伝え続けてくれていたアドバイスのひとつに「マンガは感情の変化を描くものだ(感情の変化が描かれていると面白い)」というのがある。

しかし僕のことをよく知る人はわかると思うのだが、僕の描いた1ページマンガには、感情の変化とか描いてなくて、情報を並べただけのマンガがかなりある。

適当に例として出してみる。

これは、「中2の妹が、神社とお寺の区別をシビアにやってた」ってことが面白くて描いたのだが、そのやりとりの中で生まれた感情の変化を軸に描いてはいない。

一応意味はわかるけど、マンガとしてもっと入れ込めたはずの面白さを逃していてもったいない感じになっている。

これは何も、佐渡島さんの言ったアドバイスを無視してやろうという反骨精神からやっているのではない。

ここにも自分の中での決めつけがあったのだ。

僕が決めつける様子を簡単な3ステップで説明するとこんな感じ。


step1:妹とのやりとりがなんか面白かったのでマンガにしようと思い立つ。

step2:感情の変化を軸にした描き方が思い付かず、「あれ、でもこの面白さって、感情の変化を軸に描けなくない?」ってなる(決めつけ)。

step3:「今回のマンガみたいな面白さは、感情の変化と別のところに用意して描くしかないんやなぁ」と納得する(決めつけの補強)。


こんなことを佐渡島さんと出会って2年半も続けてきた。

しかもこの自分の3ステップを自分の中で勝手に考えて、他の人にちゃんと相談とかしてなかったので、「それってこう描くと感情の変化の面白さも足せるよ」みたいなアドバイスをもらえる状態にできてなかった。

もしくは、アドバイスをもらえたときも、やはり「今回はそのアドバイスには当てはまらん場合だろう」という決めつけを行ってしまっていた。


これはあくまで「マンガは感情の変化を描くもの」という言葉に対しての決めつけの一例でしかない。

根本的なアドバイスに対してすらこんな感じなので、他にも無自覚な決めつけがやまほどあると思った方がいいだろう。


本当に、マジで認めるのが嫌だったのだが、現状、僕はかなり練度の高い勘違い野郎だ。

大事なのはわかるけどクソ嫌い

今回の決めつけに気付けたのは、もらったアドバイスに対して、自分が納得するまで振り返ることができたからだ。

要するに勘違い野郎であることを自覚し、そこからの脱却を目指すには、振り返りが必要不可欠ということになる。

先週から振り返りnoteを書いてみてよかったなと思いつつ、小さな振り返りを毎日行うのも大事だなと実感した。

しかしここでひとつ問題がある。


僕はめちゃくちゃ振り返りが嫌いなことだ。


皆が想像しているであろう50倍くらいには、僕は振り返りが嫌いだ。

僕の嫌いなものリスト。

戦争、飢餓、差別、振り返り。

この並びでもそんなに違和感がないレベル。


マジで全然モチベーションが上がらない。

もう大学4年生の夏になる。

マンガを描くために一番自由に時間が使える時期であり、その期間ももう終わろうとしているというタイミング。

こんなに切実に、やらないとヤバいってことがわかっているのに、継続どころか三日坊主ですらやるのが難しい。


何が嫌かを考えてみたが、やっぱり自分のダサさを認めるのが嫌なんだと思う。

嫌じゃない?普通に。

今回「自分が勘違い野郎である」っていう自己認識をしたわけだが、これですら思ったよりイヤ〜〜〜な気持ちになってびっくりした。

なんかもうちょっと、僕はどんな自分でも「現状がそうなら仕方ないよなぁ」ってスッと認められる人間だと思ってたので、なんかすごい期待外れだった。

振り返りをして自分を見つめると毎回そんな気持ちになるので、「じゃあまだ他のマンガ描こっかな」みたいなことを考え、特にその他のマンガを描いたりもせず寝る日々が繰り返されていた。


しかしこう考えてみても、このサイクルで僕が勘違い野郎となっていくのはすごい当然なことだった。


打ち合わせでもこんな話をし、「でもやっぱりマンガを描くときにいろんな甘えがあると思うんで振り返りやって気付くようにします・・・」みたいなことを言った。

しかし、それに対しての佐渡島さんの言葉で、どうやら僕はまた別の決めつけをしていたらしいと気付いた。

振り返りを何のためにやるのかを勘違いしていた。

「自分を責めちゃダメだよ」の意味

さっきさんざん書いたように、僕は振り返りがめちゃくちゃ嫌いで、その理由は自分のダサさを認めるのが嫌なところにあった。

言い訳だらけの自分を見つめるのはとてもつらい。


しかしそもそも、振り返りの目的が違うという指摘を佐渡島さんから受けた。

「振り返りするときは絶対自分を責めちゃダメだよ」とのことだ。

佐渡島さんにはその直前までの会話で「マンガに対していろんな甘えが秋野くんにはあるんだと思うよ」と言われていたので、ちょっとびっくりした(もちろん責めるための言葉でないことはわかっていたけども)。


振り返りは、自分で楽しみ続けるための工夫をするためにやるものだ。

自分を責めるために振り返りをしていると、「こんなに辛いことをしているのに・・・」と努力の本質を見失うし、その責める意識が他人に向いたりもしてしまう。

そもそも楽しくないと続ける意欲を失ってしまう。

だから振り返り自体も、自分がどうやったら自分を理解することを楽しめるのか、工夫しながら行うべき、とのことだった。

救いようのある勘違い野郎になりたい

そんなわけで、自分でどうやったら振り返りを楽しめるのか考えてみた。

今回考えてみて、ツイッターとかでフォローしてくれてる人に見てもらえるような形式で振り返るとモチベーションが上がるかも、ということになった。

この前誕生日のマンガでも描いたけど、僕は誰かに見てもらえることを想定するのがすごいモチベーションに繋がる。

今回の振り返りも、「自分が勘違い野郎である」と認める過程はマジで最悪の気持ちだったのだが、「うわ〜最悪な気持ちやぁ〜〜」と思いながらnoteを書くのは正直かなり楽しみながらやっていた。

日々の振り返りとしても、その日のマンガへの課題意識を盛り込みつつ1ページマンガを描くのをやっていきたい。


今の自分のダサさの一部分を、今回がんばって少し自覚した。

自分のことは意外と他人からのがよく見えるというので、「勘違い野郎の秋野がまたなんか言ってんぜ」と思われたことも少なくないと思う。

けど今回のnoteをきっかけに、「勘違い野郎だが変化の可能性があるかも」と自他共に思えるような自分になりたい。

いいなと思ったら応援しよう!

秋野ひろ
僕が有名になった後「秋野ひろは俺/私が育てた」と公言できるようになります。

この記事が参加している募集