【宣伝】自慰行為とパラダイムシフト

 先日ネーム作品(https://corkbooks.com/articles/?id=2913&userPage=0&userSort=1)を描いた。
 テーマは少し未来の水泳マンガだ。主人公は、生まれつき無かった両脚を手術により得た少年。高校の水泳大会でも県内トップの実力を見せ、周囲から大きな賞賛を受ける。しかし障害のクラスでは全国一位の称号を博していた彼は、むしろそのギャップに悩む。

 去年の初夏に出てきたアイデアを二度リメイクしたものなのだが、どうしてこんな設定にしたのか、自分があの作品を通じて何を描きたいのかを整理する。

 発想の元にあるのは、自分の中学、高校での陸上部長距離部員としての思い出だ。
 小学生までは学校内のマラソン大会で真ん中より上に行けたことがなかったが、練習していくうちに成績も伸びていき、中学三年生の頃は県大会の上位で戦える選手になっていた。それまで自慢できることが「仲間内で将棋が二番目に強い」くらいしかなかった僕にとっては、新たに得た「足が速い」という個性が何よりも大切に思えた。
 しかし価値基準が常識と離れていくほど、周囲から理解されることも少なくなっていく。たとえば中高の6年間、僕は家族旅行に行ったことがない。理由は単純で、練習時間が確保できないからだ。それどころか、競技に没頭していたころは日帰りの遠出も拒んでいた。これは当時、就寝の時間をきっちり決めていたからで、夜の十時半を少しでも超えると、強迫観念で何も手につかなくなってしまっていた。陸上を基準に一日の予定を立てていた僕からすれば、他人のために時間を割く余裕などなかったのだ。
 そんな僕を見て、一緒に暮らしている祖母が言った。正確には覚えていないが、概ねこんな内容だった。
 「人生の中で、選手でいられる時間は一瞬だ。陸上のほかにも価値あることはたくさんある。何事もバランスが大事だ」
 僕は黙って頷いた。当時の僕にとってその言葉はあまりに衝撃で、自分の視野の狭さに気づかされた…からではない。口答えすると話が長くなるからだ。もう22時を回っていた。早く寝ないといけない。そんなことばかり考えていた。自分の中で陸上の価値を高めるほど、競技成績は向上し、同時にさみしくなっていた。
 現在、僕は大学一年生になった。たまに夜中に一人で走りはするが、大会には出るつもりもないし、陸上のサークルにも所属していない。
 今の立場から過去を振り返り、「馬鹿だな」とは思う。しかしそれでも、過去の自分を肯定したいとも思ってしまう。自慰行為でしかないのだが、表現活動の動機としては妥当なはずだ。
 ともかく、過去の自分が読みたかった作品とは何かを考えた。そして思いついたのが、「競技以外の価値を、自分以上に台無しにしてしまう人の話(…☆)」だった。

 以上が物語の起点にある感情だ。次に表現方法の妥当性について考えたい。
 ☆の部分を伝えるだけなら、水泳でなくともよいし、主人公も障害者でなくともよいし、何ならスポーツでなくてさえよいはずだ。
 『脚の枷』の設定にするまでに、☆をメッセージ性としてどんな物語が作れるか考えていたものを列挙してみる。
1、動物が人間みたいに生活する世界で、走りでは王者なはずのチーターがボクシングチャンピオンを目指す。
2、炎を自在に使える能力者が、能力が邪魔になるが好きなものに携われる職業(アイス職人とか?)に就こうとする。
3、ゲームオタクの主人公が、現実世界をないがしろにしてまで趣味に没頭する。
etc…
 1は、才能を動物の特性というわかりやすい形態で表したあたりが面白いと思うのだが、その方向で攻めるには『BEASTERS』という上位互換が現在大人気なので厳しい。何なら板垣氏に描いてほしい。2は、能力者モノのテンプレが出回りすぎたせいでテーマとして軽くなってしまいそうに思える。3も既にツイッターの8ページマンガとかでバズっていそうだ。
 ☆を「自分にとって価値のあるものを追求する(…★)」と言い換えることもできるわけだが、そう考えるとテーマとしてはあまりに平凡であることに気づく。それどころか流行りの思想と言って差し支えないだろう。一度そう思ってしまうと、分不相応にも、世の中で叫ばれているようなことを焼き直して「自己表現」と呼びたくはないな、などと考え出す。
 そこで、逆に★のイメージとは少し離れた題材を探した。つまり「それを追求するために、それ以外を台無しにすることが許されていない題材」だ。今の時代におけるそれがスポーツ、少なくとも学校や組織にまつわる題材なのではないか。
 最近、「#スポーツ界の闇を話そう」とタグ付けされたツイートを多く見かける。部活動が管理体制の温床と主張する本も多い。駅伝や甲子園で故障した選手を美談として報道されると、そのたびネットでは批判が巻き起こる。
 これらの大前提には、行動を強制されることへの批判が第一にある。しかしそれだけでなく、競技者の意思で無茶をしたとしても、他の物事と比べて冷ややかに見られがちな印象を受ける。※
 その考えに至ったとき、スポーツは☆を描くテーマとして相応しいと思えた。奇しくも自分の体験が生かしやすい分野でもある。
 スポーツで描くと決めた後はスムーズだった。競技と反対の価値基準として日常生活があり、競技に没頭するあまり「健常者」であることすらを憎む主人公を思いついた。また障害者スポーツとしての水泳も魅力的で、ローカルルールが設定として使えると感じた(しかし今後の展開に使いたいのでここでは省く)。

 これが『脚の枷』の設定ができるまでに考えたことだ。
 部活動は僕の経験したスポーツのほぼ全てで、それを元に思いついたこの作品への思い入れは強い。しかしその割にマンガを描く技量が圧倒的に足りていないのが悩ましい。
 拙いなりに、せめて過去の自分に「この程度で自慰と呼べるような感情だったのか」と言われないような作品にしたい。

※「こいつはなんて時代錯誤なことを言っているんだ」と思った人へ※
 僕が言っているのはネットで眺めた印象でしかなく、実際は逆なのかもしれない。スポーツで無茶をする風潮が未だ流行っていることの批判としてネットでは厳しい意見が多く、オタクの現実での風当たりが強いためネットでは逆に擁護する風潮が流行っているのかもしれない。というか、多分そうだ。
 現在、どちらの立場をマジョリティと呼ぶべきかはわからない。ただ個性を尊重する声が大きくなっているのは事実だし、今後その流れは加速していくだろう。僕個人としてもそれが正しいとは思う。
 だがその流れの中で出てくる安直な救いに取り残される側の人々もおり、またかつての自分がそうであり、そんな自分のための話を僕は描きたい、という話です。

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秋野ひろ
僕が有名になった後「秋野ひろは俺/私が育てた」と公言できるようになります。